『近所の1つ上の人』というワードからふまけんを考える
自己紹介の次がこれかよ、と自分でも思っている。
わかる、2つ目にしては重い。だが書きたくなる理由ができた。
今日発売の週刊ザテレビジョン、見た?!?!?
ねえ、全風磨担みた?!みた?!?!?!?Sexy担全員見たほうがいいよ?!私書きたいこと多すぎてTwitterで騒いでまだ騒ぎ足りないんだけど!ねえ!!!!!!!!!!!!エモさの海に溺れてるよ?!
とりあえず、ここではTwitterで騒がなかったがエモいなあと思ったことについて書こうと思う。それはこうだ。
中島健人、菊池風磨の近所の人問題。
事の発端は、菊池風磨はシンメ、中島健人に対してのフレーズから始まる。
「中島も近所の1つ上の人。‥‥学校の先輩ではないかな」
そうだね、わかるよ風磨くん。風磨くんも言ってるけど、ふまけんは学校で出会ったとして仲良くはならないね。絶対に同じグループでつるまないもん。イメージとして、風磨くんが仲間とバスケしてるのを健人くんは3階の教室の窓から見てる感じ(伝われ)
だからこそ、『近所の1つ上の人』なのだ。
近所の1つの上の人という関係性についての考察
私にとって近所の友達は、学校での仲良しグループも、人生計画も、今歩んでいる道も、好みも、考え方も、何もかもが違う存在だ。
これだけ違うと意見がバチバチぶつかって喧嘩・・・なんて、出会ってから今に至るまで腐る程してきた。
でも、喧嘩して気まずくなっても時間が経てば忘れているし、なんなら定期的に連絡を取り合って遊びに行くし、毎年誕生日のお祝いは欠かさない。でも、LINEの返信は気が向いた時にしかしないし、電話してもお互い作業しながら話すから沈黙なんてザラだ。
気があうのかと聞かれたら、合わないと答えると思う。
でも仲が悪いのかと聞かれたら、悪くないと答えると思う。
自分と同じような価値観を持つ人たちが集まる高校で出会った友達とは、ある程度大人になって出会った大学の友達とは、同じ仕事をする中で仲良くなったバイト先の友達とは、少し違う。
育った場所が同じ。
それだけで仲良くなるのが近所の友達だ。
でも、不思議とどんなに喧嘩しても嫌いにはならないし、信頼もしている。相手の癖も考えていることも大体はわかる。仲良くなった理由は「育った場所が同じ」。それだけ。もはや出会ったのは運命とも言えるのではないだろうか。
近所の友達としてのふまけん
そんな近所の友達というカテゴリーに風磨くんは健人くんを挙げたのだ。
「逆」という言葉がしっくりくる。
喧嘩中でさえ、お互いの隣に立つのはお互い以外有り得ないと思っている。
そんなシンメがふまけんだ。
今回の風磨くんの言葉には、物理的以上に逆の立ち位置にいる永遠の相方:中島健人への信頼が、運命が、詰まっている一言なんじゃないかなあって思えた。